奇妙な暗黙の掟が、その町にはあった。
取り立てて口にする者は無くとも、「その晩」が来ると皆鎧戸をぴったりと締め、早々と寝付いてしまうのだった。
「あれが出る」のだ。
「あれ」なる物が一体何なのか、誰も知らない。
しかし、それが恐ろしいものである事を誰もが知っていた。
夜空に赤い月のかかる宵、外界は「あれ」の世界になる。
昔はこうではなかった、と古老は言う。
これは歴史などではない。三十数年ほど前に、突如として訪れた厄であったと。
まず始めに、子供が一人消えた。
夕餉までに戻るよう言い含められていたのに、辺りが闇に包まれるような頃合になっても帰らない。
大人たちは血眼になって探し回ったが、同じような色をした月がじっと見下ろしているばかりで、とうとうその子は還らなかった。
次の年も、消えた。
そしてそのまた次の年も。
月が攫うのだという者があれば、月に誘われて現れた魔に魅入られたのだという者もあった。
そうしていつしか人々は年に一度、月光の一筋すら射し入る事を許さない家の中で、「あれ」に見つからぬよう、消されぬようにと、暗がりに息を潜めながら、曙光の到来を待ちわびるようになった。
ある年の事である。
今宵まさに赤い月がかかろうか、という夕暮れの時分だった。
どの家もいそいそと戸締りを始める中で、随分前に人の住まなくなったあばら家に集い、酒盛りを始める若者達の姿があった。
頼り無いランプの明かりの中で、「あれ」などというものは、年寄り共の迷信だ、蒙昧だ、と笑い飛ばしたのは、それはそれは血気盛んな青年である。
一番年少でありながらも、己はそんな臆病風に吹かれたりはせぬぞ、と、厳つい肩や分厚い胸板が、逆立った栗毛が物語っているようだった。
人々が恐れて家に篭っている晩に、無防備なあばら屋で一夜を過ごそうというような怖いもの知らず達である。
皆面白がって、そんなに言うなら確かめてみろとたちどころに囃し出す。
出来ぬ、いや出来るの押し問答の中、ならばと声が上がった。
町外れのニレの木の根元に、印を残してくるが良かろう、と。
意気揚々と出て行く背中を見送り、残った若者達は酒盛りを続けた。
何となく、生臭い風が吹いたような気がした。
朝日が顔を出した頃、町に満ちたのは活気ではなく、また勇気ある若者への賞賛でもなく、人々の凄惨な悲鳴であった。
忌まわしき一夜が明けた喜びに、陽光を招き入れようと雨戸を開けたある家では、軒先から腕が一本ぶら下がっていた。
またある家では、目鼻の形に穴の開いた薄皮が、扉に張り付いていた。
その隣では庭一面にぶちまけられた灰色のふるふるとしたものを飼い犬が食んでいる。
通りの至る所に鮮血がこびりつき、異臭を放つ臓腑が打ち捨てられていた。
小さな町は、どこもかしこもが人肉色だ。
どの肉片も、無理矢理引き千切られたような無残な切断面を晒している。
皮膚には紫色の死斑に混じって、紅葉のような痣が残されていた。
人々は震え上がりながらも、我が家から欠員が出ていない事に安堵した。
ある一家を除いては。
年老いた女が、逆立った栗毛を抱いて絶叫していた。
それからというもの、犠牲者はただの一人も出ていない。
八月の満月への恐れと、掟に忠実な人間だけが残ったからだ。
年月だけが流れた。
彼らは実直であったがために知らない。
もう「あれ」は来ない事。
そして昨年、郊外にひっそりと居を構えていた老人が死んだ事。
下働きをしていた子供がつい最近姿を眩ました事を。
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